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当院には、毎年平均して20組以上の親子が登校拒否などの悩みを持って来られます。ここで2007年に来院された中学1年生と小学5年生の姉妹の話をご紹介します。

姉妹はご両親と一緒に当院に通っていました。姉妹は登校拒否をしており、ご両親は「なんとか学校に行ってもらいたい」と悩んでいました。

引きこもりなどの子どもをカウンセリングする場合、私がいつも言うことがあります。それは「お父さんお母さん達は何も口を出さないでください」ということです。「まずは登校拒否に至った経緯を聞かせていただくだけです」とご了承をいただきます。

その後、まずはカウンセリングというよりも一人の人生経験を伺うために会話をしていきます。

 

最初に「お姉ちゃんたちはなぜ学校に行くの?」と質問をすると、さっそくお父さんが「先生、その質問はおかしくないですか? 義務教育だから当たり前です。なぜそんな質問を子どもにするのですか?」と割って入ってきました。

他のケースでも大体同じことが起こります。しかし物事には必ず理由があります。引きこもりに関しても「お腹が空いたからご飯を食べる」「背中がかゆいからかく」などの生理現象と同じように自然(必然的)な成り行きがあるのです。

私はお父さんを遮り、なぜ学校へ行くのかを再び問いかけると、妹が「友達と話したり遊びたいから行きたいけど、学校の勉強はしたくない」と答えました。姉も「図書室の本は読みたいけど、授業は受けたくないし友達もいらない」と答えました。

そこでまず妹に「じゃあ友達と話したり、遊んだりすればいい。学校は子どもたちを育てる場所であって、そのなかに体育・教育・食育・心育・道徳があるだけだから。これらはすべて学問であって国語・算数・理化・社会も学校でしなければならないことではないんだよ」と切り出しました。

妹は「えっ、そうなの?」と気付きを得た表情でした。

するとお父さんが「ちょっと待ってください! 学校は教育を受けるところで科目を勉強しに行くところですよ」と入ってきました。

私は「すみませんが、私はいま彼女と話をしています。途中で口を出さないように」と最初に断ったことを確認し、お父さんに続けました。

「教育とは科目を指すのではなく、子どもを教え育てるものです。食育であれば感謝し、『頂きます』『ご馳走様』と食べ物を作ってくださった方に感謝をすること。体育や道徳などもすべて同じです。親としてこの子たちの将来を考えたとき、身体が健康であることを一番とし、自分の人生を楽しく送ってもらいたいと思うはずです」

「この子はこの子です。個性がある。お父さんもお母さんもそうではないですか? 『子どもの将来のために』という言葉をよく使われますが、子どもたちの将来とは一体何ですか? わが子の将来を真剣に考えているのであれば、身体が健康であり、他人に迷惑をかけず、人間としてまっとうに生きること。自分は自分である、といった人生観を持って健康であればいいのではないかと私は思います。

とりあえずいまは娘さんと話をしていますので、このまましばらく黙っていただいてよろしいでしょうか。よろしければ車でお待ちになっていてください」。お父さんは退室されました。

「よし。じゃあお父さんとお母さんに学校の先生へ話をしてもらって、いま僕が言った通り『うちの子はやりたくないものはやりませんので』と断ってもらおう」

すると妹が「そんなわがまま通用するの?」と言ってきました。

「わがままは『我がまま』だから、自分らしく生きればいいんじゃないかな。誰も言わないから流されるまま学生時代を過ごしてしまう。こういう前例が無かったとしたら例を作ればいい。『これが私です』と自信を持てばいい」

このあたりは自分でも目茶苦茶な畳み込みだと感じます。確かに妹は「そんなことしたらみんなからイジメられるかもしれない。不安だな」と言ってきました。

「じゃあ学校に行かなければいい。家で勉強をして、友達には遊びに来てもらえばいい」

「先生は簡単に言うんだね」

「難しく生きようとすれば、難しく生きることになる。もっと言えば大人たちの世界が何事も難しくしている。そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかな。たとえば中学しか出ていなくても人間的に素晴らしい方はたくさんいるよ。学歴ではなく、人としてということが大事だと僕は思う。そして君が社会に出て働くようになっても、職業に優劣をつけるのではなく、どんな職業も必要だからこそ職業が成り立つわけだから、自分に誇りが持てるものを見つけ、楽しめることこそが人生だと思う。難しいかな?」

「…でも、できるかな?」

「お父さんやお母さんたちが協力してくれればできるはずだよ」

そこで口を閉ざしていたお母さんが口を開きました。

「先生、わかりました。私は子どもたちの将来というものを勘違いしていたのかもしれません。どうなるかわかりませんが、先生の話を聞いていると、どうにかなるのではないかという気持ちになってきました。夫とよく話し合ってみます」

「ではよく話し合ってみてください。次はお姉ちゃんだね。お姉ちゃんは人と話しているよりも本を読んだりしているのが好きなんだね」

「わかりません」

「どうして友達がほしくないの?」

「めんどくさいから」

「自分が面倒をかけるのも嫌なんだね」

「そうです」

「ということは面倒になる想定を描けている。あるいは先々の面倒をシミュレーションしてしまうくらい、先読みの脳(感覚)が働くんだな」

「そんなことは考えていません」

「そうかな? 考えて想定できるから、面倒くさいと感じると思うけどな。ところで本の何が面白いの?」

「余計なことを言ってこないし、自分が読みたいときに好きなジャンルの本を読めばいいし、自分勝手な時間を過ごせるから」

「じゃあ無理して人と付き合わなくてもいい。そんな人は世間にはたくさんいる。でもそういう人のなかには他人の相談に乗ったり世話をする人たちが意外といるんだけどな。お姉ちゃんはさっきも言ったように、面倒をかけるのもかけられるのも嫌だろうけど」

「すみません、話の途中で入ってしまって。そういえばこの子は近所の幼稚園から小学校低学年の子どもとよく遊んであげたりして、そういう面では面倒見のいい子なんです」

そこで私はピンときました。

「そう、その姿がお姉ちゃんの我がままなんです。面倒くさいのではなく、自然に、我がままに面倒を見るのがいいということです。相手が素直に『ありがとう』と言ってくれるような子の面倒は自ら見たくなるのであって、決して人を相手にすることが嫌いではないのです。言い方は悪いかもしれないけれど、自分にとって楽しめること、嬉しくなることのみしかしないんだね。

でも、まだお姉ちゃんは中学一年生です。『自分は人が嫌いで本が好き』などと決め付けずに、自分の心に良いことだけをしてみればいい。小さな子どもたちの世話をしてみたり、自分に自信を持って、図書室では自分を磨いてくれる本を読んだりすればいいんじゃないかな」

すると姉は呆気にとられたように「そんなに簡単でいいんですか?」と言いました。

「いいよ。自分の心に正直に生きるのが人生です」

「ヘンな先生だ」と言って、彼女はにっこりと笑いました。

「ありがとう。じゃあ二人とも頑張らずに、楽しんで登校拒否してください。ちなみに先生の嫌いな言葉は努力・鍛える・我慢・苦労です」

 

それから3ヶ月ほどが経ち、二人の姉妹は徐々にではありますが、学校へ行き始めました。もちろんすんなりと学校に通えるようになったわけではなく、休みを取りながら、それでも学校へ行こうと行動を始めたのです。

大人になった姉は保育士となり、妹はメイクアップアーティストの下積みをしながらそれぞれの人生を歩んでおられます。現在も定期的にご来院いただいています。

『ヘンな先生だ』という言葉と二人の何かを得た顔つきはいまでも私の記憶にしっかりと刻まれています。

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